朧恋夜 15-2

     その声は時に優しく、時に懇願し、時に恨みがましく、曖昧な響きにもかかわらず耳にこびりつく。切なく名を呼ぶ主は、果たしてどちらだろうか。
     湿った生ぬるい風が背中を包み込むように流れる。リュヴェルナの背後に立つは、大柄なヴァンパイア。彼は責めるではなく、またその類の言葉を持っておらず、なおかつ一歩を踏み出すことにためらっていた。
     いつの間にか足はカインだったものとマナルールだったものが混ざる小屋にたどり着く。扉は閉まっているというのに、腐臭が隙間から漏れ出、同時に虫と蛆が至るところにわいていた。
     飛び散った血の上に、光の加減で蒼にも黄にもなる夜の花が咲いている。甘ったるい強烈な香りが無残な腐臭と交じり合い、清浄な空気の味をえぐみと酸味のあるものに変えていた。
     一歩足をふみだせば、乾いた草のこすれ合う音がする。歓迎には程遠く、先ほどまで美しく奏でていた虫がすっかり息をひそめている。
     リュヴェルナは花の前に屈み、細い指で手折った。
     白い液が指先に垂れる。
     それらを無造作に散らす。意味はない、ないがそうするものだとどこかで感じている。
     落ちてくる茎に驚き、息を殺して様子を伺っていた蛙が飛びのき、背後では小動物の木々を移動する物音がした。
    「後悔などしていないのよ」
     自身のために呟く声はわずかに苛立ちが含まれていた。
     何度も足を運びながら、結局中に入ることはしなかった。
     表情の乏しい陶器人形のような頬が、月のわずかな光に照らされた。
     カインの死から数十日が経過した。リュヴェルナはヴァンパイアの巣に戻ることはなく、また追うノウェを拒むことなく彷徨い歩いていた。
     疲労のためか、リュヴェルナはもともと細かった身体がますます細くなった。その間、食事を採っていない。いくらノウェが豚や牛の死体を運んでも、目の前で赤を見てもその衝動はかつて日常的に得て当たり前のものではなくなっていた。
     膝をつき、思わず前かがみに倒れそうになるのを両手で押しとどめる。
     袖口から覗くリュベルナの手足は、ひきつり爛れ、えぐられていた。それは主に背中にかけて広範囲に広がっており、身を覆う衣服もところどころ灰になってみすぼらしくなっている。
     またノウェは、腕を主に同じくやけどの傷を負っていた。いずれも日光や銀によって受ける傷であり、本能的にそれらを恐れ避けてきたヴァンパイアの常識ではありえないほどのものである。
     さながら羽根を引きちぎられた鳥。
     二度と飛ぶことはできないだろう。希うこともなかろうが。
     小さくなったリュヴェルナの背に、ノウェは侮蔑とも取れる呟きを投げかけた。
     やけどは主にカインの死の初日から数日にかけて負った。リュヴェルナは無意識のうちに日光を求め、ノウェの制止を振り切った結果だった。数日後にはその抵抗力すら弱くなり、ノウェはいともたやすくリュヴェルナを捕えることができるようになっていた。
    「リュナ」
     近づき、傷に優しく触れる無骨な手が、リュヴェルナをわずかに振り向かせる。
    「触るなっ、これは僕のものだ」
    「――カイン」
     反吐を吐きたくなるほどの名だ。声に出してみて、そのあまりの低さにノウェ自身、眉をひそめる。
    「たった唯一の僕のものだ」
     触るな、もう一度リュヴェルナの口を通して、カインの声が威嚇をする。
     そうしてリュヴェルナは再びよろつく身体でノウェから逃げるだろう。光の中に無防備に飛び込み、身を焦がす痛みを気にもせず。
    「リュヴェルナ」
     カインの意思と声が一番の拒絶だと知っていて。けれども発する本人は顔を歪め、怯え、強張って身をすくめる。
     筋張った大きな手が、そっとリュヴェルナの頬に触れる。
    瞬間少女は退き、自分に触れたものの正体を知る。
    「――リュヴェルナ」
     カインの血も肉も声も、意思すらも体内に取り込んだ。自分が欲していた彼のなにもかもを手に入れたのだ。リュヴェルナは確かに満足したのだ。ノウェの手はあまりに大きく、温かく振り払いたいという気持ちが全く湧き上がらない。怖いのではない、動けないのではない。ただ受け入れたいのだ。
     強く見つめてくるノウェに、リュヴェルナは息が詰まりそうになる。
     これほどまでにまっすぐノウェは自分を見ていた。
     強すぎる視線は時に受け止めきれずに逸らしてしまう。ノウェは一度としてリュヴェルナを攻撃などしたことはなかったのにだ。
    「俺の声を聞けるか」
    「ノウェ」
     抱きすくめられ、夜露の匂いに鼻がつんと痛んだ。
     抵抗しなければならない。自分はカインと共に在ると誓った。カインへの想いが瓦解する。――拒絶の意思が浮かぶが押し返す気力もない。
     対して耳に届く低い声は聴きなれた穏やかなものであり、なんら自分を害する様子はない。だが失ってしまうものへの異常なほどの恐怖心が湧き上がる。
    「家畜の血を吸うなど当たり前のことだが、たとえお前が人間であろうと俺がその血を吸いつくし、取り込むなど思いもつかん。そして俺はお前が傍にいて当たり前だと思っている。番だ、お前以外に番などいない」
     諭されてはいけない。
    「――の」
    「聞け。お前が欲しかったものはなんだ? 奴の欲しかったものはなんだ? お前は体内に奴を取り込んだと言ったが、今のお前を見ているとすべてを満足したようには思えん。血を喰らうのは当然幸福だっただろう。だが継続はしていない。なぜならそれらは本当に欲しかったものの代替品に過ぎん。残念ながら互いに同じくな」
    「違う」
    「奴の声にて否定するか? 愛とはなんだ? そこかしこに散らばっている欲の塊に過ぎない。故に必要ないのだ、その言葉は。言葉にて形を与えるものなんぞくそ喰らえ。お前は愛など最初から知らんのだ。知らんが故に奴を使って確かめた。家畜と戯れ得たものなんぞ捨ててしまえ」
    「ノウェ」
     さらに力がこもる腕に、リュヴェルナ胸を圧迫され息が途切れる。空気を求めてノウェの厚い胸板から無理やり顔を出す。そして地面を照らす朧月の光の中に、黒く蒼い人影がじっとこちらを伺っているのが見えた。
    「ノウェっ」
     どんっ、ノウェの身体ごと押しつぶされる衝撃に目の前が白くなる。一瞬の圧力――すでにノウェの身体は離れ、弓なりに背を逸らし、後方へと倒れ込んだ。
    「ノウェっ」
    「ヴァンパイア、神の理にはずれし化け物」
     白い煙が立ち込める銃口をこちらに向け、かつて対峙した老狩人が口角を上げ、歪んだ笑みを浮かべて立っていた。
    「故に、正義はこちらにある」

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